ヒーリングガーデン-サウンドヒーリングでリラックス-









Home >> ファシリテーター研修会 >> 喜田圭一郎プロフィール

株式会社ジョイファンデーションの設立者
(旧:ヒーリングバイブレーションInc.)
喜田圭一郎の軌跡

blog
ENGLISH


『プロフィール』
喜田圭一郎(きたけいいちろう/Keiichiro Kita)
サウンドヒーリングプロデユーサー
サウンドヒーリング協会理事
株式会社ジョイファンデーション(旧:ヒーリングバイブレーションInc.)代表

『企画、制作』
  • 心がやすらぎ体がリラックスする音楽、自然音のCDを企画制作
    (Healing island 屋久島、スターライトヒーリング、オリジン、陰陽五行音他)
  • スカイパーフェクトTV 268ch 3分間リラクセーションコンテンツ企画担当
  • 日本航空機内オーデイオ「ソフトスムーズch」構成担当
  • 松下電工汐留本社ビル快眠ルームの環境を音と映像でプロデユース
  • 松下電工快眠商品「夢楽園」用オリジナルCD制作
  • 松下電工生体リズムを科学したあかりASSA 用音楽、自然音企画制作
  • FM高松「癒しの森」「Healing island」コンテンツ企画、毎日放送中
  • プラネタリウム番組「スターライトヒーリング」コンテンツ企画制作10年間継続中
『教育研修』
  • サウンドヒーリングの実技と理論と精神を学ぶセラピスト資格認定研修会、ファシリテータ資格認定研修会開催
  • New York オリーブリーフSpa Centerと提携し米国サウンドヒーリング養成コース定期開催中
  • 六本木アカデミーヒルズにてサウンドヒーリングセミナー開催 『サロン経営』
  • サウンドヒーリング専門店「ヒーリングガーデン」渋谷店、目黒サロン経営 『その他』
  • コーネル大学ニューヨーク病院にてサウンドヒーリングをがん治療の補完代替医療プログラムとして実施中(ミッチェルゲイナー博士監督)


株式会社ジョイファンデーションの設立者 (旧:ヒーリングバイブレーションInc.)
喜田圭一郎の軌跡

私の両親は音楽が好きで、自宅で洋裁の仕事をしていた母は私を身ごもると仕事中もよくモーツアルトやシューベルトを好んで聞いていたそうです。父はアメリカのポピュラー音楽やラテン音楽のレコードを沢山集めていました。私も小さい頃、父が聞くアメリカのジャズを聞いて何故かとても懐かしい感じがしたのを今でも覚えています。また両親は自宅でよくダンスパーテイーを開き、私も父の足の上に乗って一緒にダンスをしたことを思い出します。クラシックの定期コンサートにも何故か両親に混じって聞きにいっていました。

4才の時、母の勧めでピアノを習いはじめました。その当時、男子でピアノを習っている人はほとんどなく、女子に混じりながらも18才まで習い、一時はピアノを仕事にしようと考えたこともありました。

13才の時、原因不明の病気になり、血圧が異常に高く、病気の治療法を求めて病院を転々としました。ネフローゼ腎炎という病気らしいことがわかり、一年間ある病院に入院し治療を受けましたが、一向に良く成らず、絶対安静と言われ、病室のベッドで独り寂しい思いをしていました。毎日、様々な注射や点滴を受け、心も体も病人になりきってしまっていた私の心を唯一慰めてくれたのが音楽でした。体がつらくても、音楽を聞いている間は気分がほぐれました。「君の病気は一生治らないからそのつもりでいなさい」と担当医に宣告され自分の未来がみえなくなってしまった私にとって音楽はその現実をわすれる時間でもありました。

一向に良く成らない状況を心配した母はあるとき、私を病院から連れ出し、自然療法を行っているある道場に行きました。その道場では手を体にあてるというエネルギー療法を行っていました。また高い芸術が人の心を浄め、より高い芸術に触れることも奨励していました。また化学肥料を使わない自然農法を広めており、その自然の農法により採れた野菜を食べて自然治癒力を高める方法も行っていました。

担当の先生も私を見た上で、喜田さんの体にはまだ十分病気を治す力があるから心配いりませんと言われ、希望が湧いてきました。そして前の病院を半ば強制的に退院し、薬も一切やめ、自宅から毎日その道場にかよい始めました。約3ケ月くらいで体も楽になり良く成ってきました。その頃自分の心の変化もありました。病院に入院していた頃は、病気を治すのは医者であり私は言われたまま待っているしかないと消極的な日々を過ごしていました。ところがその道場に通いはじめてからは、病気を治すのは、先生ではなく自分自身なんだ、自分の治癒の力なんだと気づきました。エネルギー療法を行い、より大きな生命の基とつながり自分の体に内在している力で病気を治せるんだと前向きな心に変化していきました。

休んでいた学校にも通いはじめ、毎日のようにレコード店に通い自分の心に届く音楽を探し求め、小遣いをためてはレコードを買い自宅でステレオの前に座り音楽を毎日のように聞いていました。その頃はショスターコービッチ、ドボルザーク、チャイコフスキーなどロマン派以降のクラシック音楽を好んで聞いていました。ロックなど強いエネルギーを感じる曲は体が疲れるせいかあまり好きになれず、音楽療法的にその頃の自分の心に同調する音楽、より高い響きで自分の心に希望をもたせてくれる曲、またよどみのない澄んだ演奏の音楽を無意識に求め続けていました。グレングールドのバッハに感銘したのもその頃でした。ステレオも市販のものに満足できず、中学生でありながらオリジナルの再生装置を組み立て、自分の納得のいく音質を求め続けていました。

高校時代には声楽も学び、音楽の大学にいくことも考えましたが、自分が病気のせいで社会に適応できない人間になりかけたこともあり、その経験が生かせるだろう社会福祉の大学に進みました。キリスト教(南長老/プレズビテリアン系)の大学だったせいかお祈りの時間があり、賛美歌の伴奏をすすんでさせて頂きました。米国人の教授たちがキャンパスに住んでおられ、学生生活の中で生きた英語を学ぶチャンスも与えられていました。

卒業後、社会福祉の分野に自分の人生を投入することに疑問を感じ、環境音楽の企画制作と快適音場空間の設計施行をする会社に入社しました。やりがいのある仕事であり、空気の彫刻のように空間に満ちていく音波のエネルギーで都市空間をより心地よく生命にやさしいものに創造できることをその時学びました。

その仕事の関係からパイオニア社が新しく開発した、音楽を体で聞く商品と出会い、その会社の誘いに乗って、よりやりがいのある仕事を求めてその会社に移りました。病気で一度死にかけた経験から、頂いた自分の命をもっと大きく社会の為に何か役に立ちたい、といつも考えていました。自分が何の為に生きるのかという疑問をひも解くカギもそこにありました。パイオニアの創業当時の名前が「福音電気」、音で福音を伝えるという社名を考えた創業者の松本望氏が力を入れている商品と聞き何か引かれるものがありました。

BODYSONICと名付けられたその新会社は音楽の体感音響振動を伝える製品を専門に開発製造する会社でした。新しい分野のため一般の方になかなか理解してもらえず、いろいろ苦労することが多くありました。イスやベッドや床にその製品を設置し人間の姿勢に合わせてさまざまなタイプを考案しました。

音楽療法用のイスやベッドもその会社で開発し、一時はよかったものの思ったような実績を上げることができませんでした。体感音響関連の製品が売れないならもっと他のものを売って利益を得ようという方針もでました。そうこうする内、私自身が過労とストレスで倒れてしまい、急性肝炎と黄疸で1ケ月以上会社を休まざるを得ない状況になりました。

中学時代に自然療法で病気を完治した経験から今回も西洋医療の治療を受けず、その頃かよっていた野口整体(創立者 野口晴哉のぐちはるちか)に行き、薬をいっさい使わず、背骨を整えることと、エネルギー療法(愉気/ゆき)と、体を緩めるための無意識に動かす特別な運動(活元運動)だけで病気の回復に取り組みました。野口整体では治療の主体は患者であり、その心の深いレベルに働きかけ自然の治癒力を引き出す潜在意識教育にも重きを置いていました。そしてバッハやモーツアルトなどクラシック音楽を部屋にいつも流しながら治療やその特別な運動を行っていました。何の疑いもなくその自然療法で自分の病気を完治できると信じていました。また指導をしてくれた野口裕介先生自身が私の体の力を信頼しておられ、病気はより元気で生きるための過程であるから治ったらもっと溌溂として元気になるよと指導してくれていました。

その病気は私の人生を大きく変えるきっかけとなりました。療養中、心を静かに自分と向きあうことができました。そして自分の我で仕事をし、会社の中で高い地位を築きもっと金持ちになるんだという気持ちが大きく心の中にあり、そうならない現実とのギャップにいらだちや焦りがありました。その自分の心のストレスが今回の病気の原因だと気づきました。会社は体感音響製品を少しあきらめかけていましたので、他の製品を売ろうとする会社の方針への疑問もストレスを増大させたのでしょう。

自分が本当は何をやりたいのかを考えざるを得なくなりました。お金の為に仕事をするのか、自分の生き甲斐や社会への貢献の為に仕事をするのか迷いました。そして自分の心から本当やりたいことを仕事にしようと思いました。お金や地位のために仕事をするより本心から喜びや幸せを感じることを仕事にしたいと思いました。一生懸命仕事をすればその結果として分相応の報酬を得られるとも思いました。

そして自分の気持ちに正直になってみて今一番やりたいことは、パイオニアの創業者松本氏が始めた体感音響システムを世界に普及し病気の予防や健康増進、美容に役立てることでした。今は困難でも必ず社会のニーズに答える製品になると確信がありました。今までの大掛かりな製品ではなく小型化した手に持てる製品も造るべきだと思っていました。

自然療法で病気が回復した後、会社に自分が考えた体感音響に関することを話し、社内でいろいろ提案をしました。その後小型化する製品の開発だけは進んだものの、会社はますます体感音響事業以外のことを行う方向に変化して行きました。会社の方針と自分自身のビジョンの違いに悩んでいた時、信頼していたある方から「そろそろ会社をやめ、自分のために生きなさい。あなたの本来の仕事をしなさい」と忠告されました。

体感音響を社会に広めたいという自分のビジョンを会社を退職してまで自分ひとりで仕事をすることにはリスクがあり、なかなか勇気がもてなかったのですが、その人の言葉が自分の決意を促しました。そして自分で会社を設立して自分のビジョンを実行することを決心しました。

会社に独立することを告げ、自分のビジョンを話しました。理解してくれる人は誰もいず、話し合ったほとんど全員が反対意見でした。時期がわるい、せっかくここまでやったのだから今の役職をすてるのはもったいない、無謀だなど、色々な意見を言ってくれました。あまりの反対の多さに再度自分の正直な心と向きあってみました。新しい会社での仕事のことを考えているときは心や体が暖かい感じがしました。そして自分の安定や安全を考えてその会社に残ることを考えると体に力が入り、堅くなってくる感じがしました。自分が喜べることを選択すると決めた私はもう後戻りはできなくなっていました。自分の決心は変わらないことを会社に再度話しました。

体感音響関係の事業が縮小していく中で私が考案した小型体感音響製品の製造を正式に依頼し、私が責任をもって販売することになりました。新しい会社を設立しその会社の社名は小型の製品に私が名付けた名前の、ヒーリングバイブレーション(やすらかな波動を世界に広めるという意味を込めて)にしました。そしてHealing Vibration 専用の音楽の制作を先ず始めました。音楽の制作はそのころ親しくなっていた宮下富実夫さんに依頼しました。心とからだを癒す音楽の制作は小さいころから聞いてきた音楽のセンスや自分自身の病気を癒すときに聞いてきた音楽の感性が非常に役にたちました。

そして次ぎにこのヒーリングバイブレーション(体感音響機器)を使ったセラピストによる施術の実技法を確立することに力を入れました。また自分自身で使うときのセルフヒーリングの方法も考案しました。施術の実技法は今まで自分が経験した病気の治療過程におけるの全ての経験が役に立ちました。ホリステック医学の河野渡先生にも相談にのって頂きました。野口整体の主宰者、野口裕介先生にも意見を頂きました。

またその頃、自分の心に平和をつくり出すことが自分と出会う人の心に平和を生み出し、それが更に地域社会の平和を生み、その積み重ねが世界に真の平和を生む方法であるという世界平和の運動を提唱していた五井昌久氏の考えに大変感銘を受けていました。そして自分自身の心に先ず平和をつくる精神と今まで私が経験した二つのエネルギー療法と体感音響によるサウンドヒーリング(体感音響)法を組み合わせた、新しい体感音響施術法 「KITAサウンドヒーリングメソッド」を確立することができました。

その後コーネル大学ストラングがん予防センターのミッチェルゲイナー博士と出会い、ゲイナー博士と日本の医学、音楽、ウエルネスの専門の方々の協力のもとサウンドヒーリング協会を設立し人材育成と研究に更に力をいれることになりました。サウンドヒーリング協会ではサウンドヒーリングの精神と理論と実技を教え3段階の資格を現在では認定しています。

これからもこのヒーリングバイブレーション(体感音響機器)の普及とKITAサウンドヒーリングメソッド(体感音響)による人材育成を通して健康、美容、ウエルネスに関連する事業や職種を開発し、人々の健康と一人ひとりの心のやすらぎから始まる、真の世界平和の実現に貢献したいと思います。

  ファシリテーター研修会へ戻る このページのトップへ  
Copyrights © 2006-2009 Healing Garden All Rights Reserved    Produced by ホームページ作成 サロン